出口御坊光善寺は、蓮如上人開基の寺であります。 文明七年(1475)八月二十一日に福井県の吉崎を退去され舟にて小浜に着かれ、丹波・摂津を抜けて九月五日に河内国茨田郡中振の郷出口村に移られました。御厨石見入道光善が草庵を建ててお迎えされました。出口は京都と大阪の中間地点で淀川の南岸に接し、水陸交通の便利な土地柄でした。当時この地には二丁四方(一万四千四百坪)の大きな池があり、それを埋め立てて諸堂を建立されましたので、山号を淵埋山(えんまいざん)と名づけられました。 池は今も残され、石川丈山作光善寺庭園の一部となっています。 また池の周囲には梓(はり)の木「現在の植物名-さいかち」がよく茂っていましたので、人びとは光善寺のことを「梓原堂(しんげんどう)」とも呼んでいたと伝えられています。今も光善寺庭園の片隅に梓の大木が残っていて、大阪府の天然記念物に指定されています。 池に面した書院は五百二十数年前の蓮如上人ご在住当時の姿で残されています。石川丈山は、この書院を萬象亭と名づけました。当時は池のすぐそばを淀川が流れていて、三十石船の上り下りする情景や彼方に見える天王山の風景を借景に取り入れた風流な眺めでした。 天文三年(1534)火災にあい、慶長年間に再建されました。
上人は六十一歳から六十三歳までの約三年間出口に在住されて、再び近畿を中心に各地への積極的な強化を展開されました。 出口御坊での報恩講には、大勢の人々が近畿をはじめ各地から参集し、門前は市をなすほどのにぎわいであったと伝えられています。 蓮如上人は真宗再興の祖とも中興の祖とも讃仰されます。それは宗祖親鸞聖人の教えを誰にでもわかりやすい『御文(おふみ)』としてお書きになり、伝道教化して下さったからでしょう。『御俗姓(ごぞくしょう)の御文』は出口の報恩講で読まれたものです。 有名な『白骨の御文』も出口時代の作と言い伝えられています。