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出生から少年期
蓮如上人は、応永二十二年(1415年)二月二十五日、当時京都東山にあった大谷本願寺でお生まれになりました。父上は後の本願寺第七代の存如(ぞんにょ)上人で生母は本願寺に仕えた人でした。生母の身分が低かったことで、上人六歳の時に、鹿の子の小袖を着せた上人の絵像を携えて、いずこともなく立ち去られたのでした。
生母はその時に、「願わくば、将来の御一代には必ず親鸞聖人の真宗を御再興したまえ」とて、懇ろにそのお心を述べられたと伝えられています。
まもなく父存如上人の正室として輿入れて来られた継母如円のもとで、悲しみにも耐えてよく勉学に努められました。当時の本願寺はさびさびとして参詣の人も少なく、大変貧しい状態であったと伝えられています。それは、灯油にも事欠くほどで、文字どおり月の明かりや蛍の光の下での学びでした。
上人は十五歳の時に真宗再興の志を立て、十七歳で得度して名を兼寿(けんじゅ)と改め、法名蓮如となられました。
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青年期・壮年期
青年期壮年期も清貧の時代が続く中にあって、宗祖親鸞聖人の著述をはじめ、浄土教学の多くの書物を深く学ばれました。そのことは、『蓮如上人御一代記聞書』にある「本尊は掛け破れ聖教(しょうぎょう)は読み破れ」との上人のお言葉によっても明らかでありましょう。
上人二十八歳の時に、第一子の順如師(後の光善寺初代住職)が誕生されていますので、結婚はその前年の二十七歳の頃であったと思われます。
三十三歳の時に、父存如上人とともに関東への修行の旅をされています。
この旅で、親鸞聖人東国門弟達から続く関東教団の人びととも親しく対話をされ、後々上人が教化を進められる上でのよき体験になったと推察されます。 |
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本願寺第八代の留守職を継承
四十三歳で上人は本願寺第八代の留守識を(法主)を継承されました。上人は次々と本願寺のもろもろの古い習慣を改革していかれました。
本願寺の堂内天台様式をすべて廃止し、新しい真宗の荘厳様式に改められました。黄色の法衣は薄墨色(ねずみ色)に変えられました。天台への礼銭も廃止されました。
こうして天台宗の末寺のような存在からの脱却を実現していかれました。
そうして御亭という法主の上段の間を廃して、平座の方式とされました。それは「四海のうち皆兄弟」という親鸞聖人の同朋精神の発露といえましょう。また上人はどこまでも足しげく教化の説法に出かけられましたので、本願寺の教勢は近畿圏を中心に一段と発展しました。 |
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『御文』による教化と堅田時代
蓮如上人は四十六歳の時に、近江(滋賀県)金森の道西の求めに応じて『正信偈大意』を書かれました。
続いて翌年には、初めての『御文』を書いておられます。これも道西への宛名となっていて、『筆初めの御文』と呼ばれています。
蓮如上人の『御文』は、親鸞聖人の教えを誰にでもわかる、やさしい言葉で説かれた書簡形式のものでした。この『御文』つまりお手紙の形式による伝道は、のちに本願寺教団が飛躍的な発展を遂げる原因になったとも言われています。
こうした本願寺の発展は、やがて天台からの圧迫と攻撃を招くことにもなり、天台衆徒はついに大谷本願寺を破却するに至りました。それは寛正六年正月のことで、世に「寛正の法難」といわれる受難で、上人五十一歳の時のことでした。
上人は、危機一発の脱出をされて京都各地を転々としながら、やがて堅田(滋賀県)に落ち着かれました。堅田には、本福寺の法住という篤信の本願寺支持者があり、金森の道西らとともに、近江での上人の教化と教団の発展に大きく貢献しました。
しかし、この堅田の地も天台からの総攻撃を受け、沖の島に敗走したのでした。
上人は新しい真宗発展の将来を求めて、近江の地を離れることを決意されました。そして、近江のことを大津顕証寺に居られた長男の順如師に預け、北陸吉崎(福井県)へと向かわれました。文明三年初夏のことで、上人五十七歳の時のことでした。 |
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