蓮如上人
蓮如上人のご生涯 ③  

 出口時代と蓮如上人の相伝五箇寺設定
 海路を経て吉崎を退去、小浜から丹波路づたいに河内の茨田郡中振の郷出口に落ち着かれた上人は、この地に出口御坊光善寺を建立されました。上人は約三年間この出口に滞在され、再び近畿圏の教化に足しげく各地に赴かれました。すでに部屋住みの若い頃から、上人は近畿の各地を教化して歩いておられましたので、真宗の正しい教えの一層の普及を願われたことと思われます。
 激動と波乱に満ちた吉崎時代に比較すれば、上人の出口時代の三年間は、静かなる平穏の時期でもありました。のちに蓮如上人によって、相伝の五箇寺が設定されることになりますが、この相伝五箇寺の発想が、上人の出口時代のことかと推測されます。

 
 

  ここでちょっと「相伝」について触れてみましょう。
 「相伝の五箇寺」とは、真宗の根本聖典である親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい・略して『教行信証』と言います)など聖教類の教義伝授の五箇寺のことです。
 普通一般的には。一宗の教義の伝承は昔から直接師の口から弟子へと伝授されるものと言われています。
 真宗では本願寺覚如上人以来歴代法主の師資相伝の血脈によって、真宗教義が口伝されてきました。これが真宗でいう「相伝」と言われるものでした。
 蓮如上人は、この法主一門の相伝の大事が、戦乱等何らかの事情で途絶えることを憂慮されて、相伝の五箇寺を定められました。
 これによって、親鸞聖人の『教行信証』などの主要著述の研究基盤が確立されたのでした。これが「蓮如教学」しも言われる「相伝教学」の出発であり、以後相伝家の教学者たちの研鑽によって集大成されていきました。
 当初の「五箇寺」とは、光善寺、顕証寺、教行寺、常楽寺、願行寺です。のちには実如上人によって、三箇寺が設定され、また別家の五箇寺も設定されていきました。

 
 

 光善寺はその五箇寺の一つとして、のちには光善寺十世の一玄(いちげん)・十一世真玄(しんげん)らの活躍で、「相伝教学」伝承の中心的な役割を担う歴史を歩むことになっていきました。
 それほどの蓮如上人の深慮遠謀の五箇寺の設定でしたが、のちの学寮(龍谷・大谷大学の前身)での自由学問の興隆により、「相伝教学」はある期間の繁栄のあと本山・五箇寺らのいずれもから衰微消滅していきました。
 衰微の後、「五箇寺」の名は大谷派にのみ寺格を表すだけの名として九カ寺が残っていましたが、現在はその寺格も廃止されました。
 久しく埋もれていた「相伝教学」の『相伝義書』が、光善寺の宝庫から発見されたのは、昭和十一年(1936)のことでした。光善寺、真宗寺らの旧五箇寺から発見された相伝義書が全二十巻の『真宗相伝義書』として東本願寺出版部公刊されたのは、昭和五十三年(1978)にはじまって、約二十年がかり、平成八年に一応の完結を見ました。その研究はこれからの学者たちによって進められていくのでしょう。
 『相伝義書』の中には親鸞聖人の教えが驚くほどに新鮮な言葉で述べられています。蓮如上人しいえば、『御文』によって「真宗本願寺を日本最大の教団に発展させた大教化者」という全面に出て伝えられてきた感が強いと思われます。この『真宗相伝義書』は、上人がいかに偉大な教学者であったかを如実に証しするものでしょう。

 
 

 ところで出口はわずか九戸しかなかった小さな村落から発展し、その報恩講には、各地から大勢の門徒が参集され、大変なにぎわいであったと伝えられています。
 この頃、淀川の対岸の摂津富田には「教行寺」を、そして堺には「信証院」を建立されています。
 出口の三年目の文明九年(1477)夏のことでした。近江金森の道西が光善寺を訪ね、本願寺再建に適切な地として京都山科の土地を進言したことに端を発し、上人は種々の調査の上山科本願寺の建設を決意されました。
 文明十年の正月二十九日、上人は出口を離れて山科野村の地に移られました。時に上人六十四歳でした。

 
蓮如上人のご生涯 ④ へ続く
 
 
しんしゅうおおたには えんまいざん でぐちごぼう こうぜんじ
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